なーんてな

2017年4月21日

撮るものに困ると、ここが思い浮かぶ。
あちこちに私道なので勝手に撮影してはいけない、と書いてあるので、公開するのはこんな感じにしよう。
ここに来れば、何か撮るものは見つかる。
でも、それは違うと思うのだ。
この「ここに来れば …」の感覚は、観光地に行って撮る写真の感覚に似ている。
ここは僕が生活している場所ではないから、ここにいる僕は異邦人であり、旅人であり、他所者である。
そんな僕が撮るここの写真は、おそらく僕が撮らなくても誰かが撮る写真なのだ。
僕が撮る必要のない写真。
それは僕の写真ではない。

なーんてな。

鎌倉について

2017年4月18日

ん?そうだっけ?
「そう。もう何度も話してるわよ」
うーん
「本当に人の話、聞いてないよね」

最寄りってどこ?
「北鎌倉」
んー、何線?
「横須賀線」

じゃ東京は大学から?
「そうよ」
あれ?カマジョって鎌倉女子大とか行けるんじゃないの?
「それ、カマジョの子に言うと嫌われるわよ」
んん?
「カマジョは鎌倉女学院。鎌倉女子大とは何の関係もございませんの」

「どうする?円覚寺とか観光してみる?」
近いの?
「うん。駅降りたらすぐ」

「ついでに」
ついで?
「両親にも会っとく?」
待て待て待て待て

そんな会話を、まるで昨日のことのように思い出していた。

い着ること

2017年4月13日

今は全身ユニクロでも気にしない、オシャレとは縁遠いおじさんに成り果てているが、これでも若い時分は随分と着道楽をしたのだ。
すっかりタンスの肥やしになっているが、ネクタイ ( 当時はちゃんとスーツを着て仕事をしていたので ) や、今ではデザイン的に厳しくなってしまったスーツは、当時でもそれなりの対価を支払って手に入れたもので、捨てるには忍びなく、かと言って着るのか?と問われると、それは無理というありがちな様相を呈している。数量も結構あるのだ。

娘などは僕の若い頃の写真を見て、もうこんな感じの服は着ないのか、と言うが、もう洋服に対する執念というか、こだわる気持ちがなくなってしまっているのである。
人は外見ではない、と言うが ( 見た目が 9 割、なんてことも言われるけれど )、それでも最低限の清潔さだったり、時と場所を弁えた服装は、もういい歳をした大人なのだから、なおざりにしてはいけない。
そんなことで人格を判断されるのは心外と言うものだろう。
しかし、そのボトムラインを保つのに、必要以上のこだわりやお金をかける意味というのが、もう自分の中に見出せなくなっているのだ。
僕は典型的な日本人体型であって、近頃は中年太りも甚だしく、そんなものにナンボかけようが現実とは超えられない壁であるのを実感するのみである。

何だか悲しい話になってしまったが、年をとるということのある側面は、もう本当にこういった瑣末な悲しみの連続でもある。
これは、今は若さを謳歌している人たちにも均等に等しく訪れる。
つまり「生きる」ことの一環なのである。

東京に来てから通勤途中である新宿などを通りかかると、全身くまなく気を配ったファッションの人たちを多く見かけるようになった。
こちとらお上りさんでいなか者と来ているから、おそらく彼らの視界にすら入っていないのだろうけれど、そんな彼らを隔世の感を以って眺める毎日なのである。

大銀杏

2017年4月18日2017年4月18日

間近には見当たらなかったけれど、多分どこかに説明を書いたものがあるのだろう。
この鶴岡八幡宮の大銀杏は、鎌倉幕府第三代将軍であった源実朝を暗殺した公暁が身を潜めた場所という伝説がある。
僕らの世代は「いい国作ろう鎌倉幕府」と鎌倉幕府の成立を 1192 年と暗記したが、今は「いい箱作ろう」という具合に 1185 年という説もあるらしい。
まァ、1192 年だろうが 1185 年だろうが、頼朝が「幕府作ります!」と宣言したわけでもないので、だいたいその辺りということになるのかも知れない。
1192 年は頼朝が征夷大将軍になった年だし、1185 年は守護・地頭が置かれた年だ。

判官びいきというか、実弟である義経に対する処遇など、身内に対しても対立する相手に関しては冷徹な面がクローズアップされるせいか、源頼朝は人気がない。
以前も書いたが、頼朝は名古屋生まれである。
母である由良御前は熱田大宮司である藤原季範の娘であることから、頼朝の出生は現在、熱田神宮の西側にある誓願寺だとされている。
信長、秀吉、家康については祭りまでやって学校でも地元の英雄として扱うのに、頼朝は歴史の授業の一環で触れるのみである ( 頼朝が名古屋生まれであるのは、僕は大人になってから知った )
武家政治の創始者としての功績は大きく、過小評価されている感は否めない。
義経とて、頼朝とは異母兄弟である点 ( 義経の母は常盤御前 ) や壇ノ浦の合戦の後、後白河上皇に懐柔され官位まで勝手に得てしまった点、東国の武将からの不満などなど、頼朝にすれば自分の地位を危うくしかねないと考えるのも無理からぬところも散見されるのである。

さて、この大銀杏。
平成 22 年 3 月 10 日の未明に折からの強風の影響で倒れてしまう。
しかし再生を願った蘖からは新しい芽吹きが見られ、根を絶やすことはなかった。
公暁が実朝を暗殺した頃には、まだ幹が人を隠せるほど大きくなかったという説もあり、この話が広がったのは江戸時代であったことから、鶴岡八幡宮は暗殺の舞台ではあったけれども … という説も有力である。
誰も見たことはない話なのだから、まァ、仕方ないのかも知れない。