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夜バラ

2017年5月16日

一応自宅安静中なのだけど、何だかんだと引っ張り出される。
まァ、そうして呼ばれるうちが華なので、無理のない程度 ( これが一番難しい ) に出ている。
日中にウチで一人でいると、かなり余計なことを考えてしまう。
ちょっとくらい散歩してくるのもいいのだけど、もう部屋で転がったまま 4 時の声なんぞ聞いたりすると、もう外に出る気力がなくなる。
無気力中年の出来上がりである。

この写真も昨日、夜になってからいやいや近所のコンビニに行った時に撮ったもの。
これでは身体がよくなる前に精神的にダメになりそう ( 笑 )

2017年5月13日

自分の部屋から夜の外にレンズを向けた写真をどこかで見た気がした。
思い至ったのは木村伊兵衛翁である。
晩年、体調が思わしくない頃、自宅の部屋から外を撮影した写真を思い出していたのだ。

漫然とした重苦しい憂鬱。
体調をおかしくしていると、ずんと心に重しを乗せたような気分になることがある。
窓の外を見ると夜の闇が広がっている。
自分が、その闇の中に沈み込んでいくような感覚に見舞われる。
闇のひんやりとした感覚。
その暗闇を覗き込む時、ふとニーチェの「怪物を倒そうとする者は、自らが怪物とならぬよう気を付けよ。お前が深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ」という言葉を思い出す。
これは怪物を倒すくらいの力を持った時、自分も怪物となりうるのだ、という意味だが、暗闇を眺めていると、その奥から何かがこちらを見つめているような錯覚を起こす。

木村翁が何を思っていたかなどは分からない。
しかし、その写真から感じ取った「ひんやり」とした冷気は、たった今僕も感じることができる。

トンカツ

2017年4月26日

いいかい学生さん、トンカツをな、トンカツをいつでも食えるくらいになりなよ。

これは美味しんぼの中のセリフで、「それが、人間えら過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ。」と続く。

言い得て妙である。
おそらくは世間に数多ある様々な価値観は、経済学的にもこのセリフに集約するのではないか。
毎日、毎食トンカツを食べるのは胃の具合をおかしくしてしまうだろうから、まァ、よく食べても週に一度か二度。
今日お邪魔した「とんき」はロースもヒレも 1500 円だったから、ちょっと贅沢なサラリーマンの昼飯という立ち位置で考えても悪くない。

トンカツを食ったからといって何か自慢になるわけもなく、かといって侘しい食事ではない。
キャベツもトンカツも白飯を引き立てる。
しっかりと飯を食うことができる。
豚肉は疲れを取る効果があるし、それが午後、あるいは明日への活力になるのなら、やはり 1500 円程度の投資はすべきなのだ。

なども一人、ああでもないこうでもないと理屈をこね回していたら、とんきは池波先生の通われた店なのだと聞く。
なるほど、ね。

ヂャーヂャーメン

2017年4月25日

今日はオートバイの車検を受けに行って来た。
いわゆるユーザー車検というやつだ。
店に車検に出すよりも安価で済むので、最近はユーザーが自ら陸運局に出向いて検査を受けることが多いらしい。

インターネットで予約を取り、それに間に合うように、検査で落ちやすいと言われるヘッドライトの光軸を合わせにテスター屋に行く。
思ったよりも早く済んだのだけど、そのまま行くと事務所の昼休みにかかってしまうので、先に昼めしにすることにした。

というものの、辺りには飲食店らしきものがほとんどない。
コンビニが一軒、それから中華料理店が一軒。
選択の余地などない。

入ると、よく街の中華料理屋にありがちな、メニューが壁にずらっと貼り出されているわけでもなく、何というか良く言えばシンプルで、悪く言うなら愛想のない店内である。
親父さんが一人でやっているらしく、先客は二名。
どちらも常連とかではなく、飛び込みで、おそらく僕と同様な感じであった。

いらっしゃい、と声がかかったが ( オヒトリサマ? ) でも ( コチラヘドウゾ ) でもなく、親父さんはカウンターの中で何やらジュージューやっている。
仕方がないので、四人がけのテーブルにつく。
置いてあったメニューを眺める。
何か足りない。
水だ。
見回すとカウンターの隅にウォーターサーバーが置いてある。
自分でやれ、ということらしい。

僕の前に注文をした人の分を作り終えて、親父さんが僕の注文を取りに来る。
僕は昼のセットメニューからヂャーヂャーメン ( 野菜たっぷりの味噌ラーメン ) と半チャーハンにした。

僕が座った席は壁に据え付けてあるテレビに背を向けている席らしく、座っていると店内のいる客 ( 二名だが ) が、ずっとこちらを見ている形になる。
そのテレビからは昼の NHK ニュースの音声だけが聞こえる。
窓の外は晩春から初夏に向けて、徐々に強まる日差しが溢れている。

やがてラーメンが出来上がった。
旨くも不味くもない。
これでいい、と思った。
毎日がご馳走ばかりだと、ご馳走のハードルが上がって行く一方で、普段食べるものが段々普通のものでなくなってしまう。
普段食べるものは、ごく普通のものでいい。
特別旨い必要はないが不味いのは困る。
旨くも不味くもないもの。
これがいいのだ。

何だか嬉しくなってしまって、孤独のグルメよろしく、ガツガツと平らげた。
今日はいい日だ。

さくら

2017年4月12日2017年4月12日2017年4月12日

この季節になると、ベタなのだけど聴きたくなる歌の一つ。
PV の撮影場所が近くにあると聞いて、少し足を伸ばした。
歌詞の内容に自分の記憶を重ねる、というようなドラマティックな経験もないのだけど、これを聴けば、過去にして来たみっともない、あるいは顔から火の出るような淡い思い出を脳内で再生してしまう。
まァ、記憶なんていうのは便利なもので、その中で僕が想いを寄せていたのは PV に出演していた鈴木えみさん並の美人なのである。

最初の写真と二番目の写真に写っている建物が PV の中でも見ることができる。
桜の木自体は、この PV のために植えられたものらしく、残念ながらそれらしいものは見えない。

父、逝く

2017年3月2日昨年の12月に母を亡くしてから独り暮らしになった父に、毎週月曜に電話をして様子を聞くようにしていた。

今週の月曜、いつものように 9 時ごろに電話をしたのだけど出ない。
用事でもあって出かけたかと思い、午前中は 1 時間に 1 度掛け直してみたが繋がらない。
こうなると、もう嫌な予感しかしない。
仕事を放り出して名古屋へ車を走らせる。

出てくれ、頼むから出てくれ、と何度も何度も途中電話をかけるが出ない。
名古屋に着く頃には、半ば覚悟を決めた。

実家に着く。
呼吸を整え、合鍵で玄関を開ける。
「おーい、お父さん!」
呼びかけるが返事はない。
玄関からまっすぐ突き当たりに居間へのドアがある。
ぴったり閉められたドアの様子を、僕は一生忘れないだろう。
上がって居間へのドアを開ける。
父はいた。
僕の中では時間が止まって、とても現実に起きている事とは思えなかった。
父はいつも座っているところで横向きに倒れていた。
大声で呼びかけ、ゆり起こす。
冷たい。
それに体は固まっていた。

今、これを思い出しながら書いているが、たかだか今週の月曜の事なのに、酷く記憶が曖昧な部分がある。
間違いなくショッキングな出来事であって、119 をして、心臓マッサージをしろと言われ、硬直していて仰向けにできないと答え、それならそのままでいいから、と言われ、やがて救護隊が来て、亡くなっているので搬送はしないと言われ、警察が来て、事件性がないかを調べると言われ、家族に連絡し、義母に来てもらい、葬儀場に連絡し、親戚に連絡し、それでも何か忘れている気がして何度も考えるのだけど、結局何も考えられずにいて …。

今でも、ちゃんと考えられているかと言われると、まだ実感すら持てないでいる。
ただ、本当に疲れた。
この数ヶ月で何年も歳をとった気がする。