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進路

2017年5月19日

ご存知の方はご存知なのだけど、娘は美術系の大学に通っている。
まぁどこのウチもそうだと思うけど、子どもは「お絵かき」が好きで、娘も御多分に漏れず、その通りだった。
しかしそれがそのまま大学の選択になっていくとは思いもよらなかった、というのは本音である。

まだ最近の話だが ( 本当なら受験を決める時に聞いて然るべきだけど )、娘にどうして美大を目指す気になったかを聞いた。
その返答に少なからず驚いたのである。
きっかけは僕の絵を見たことだと言う。

家に僕の絵なんかあったっけ?と聞くと、僕が高校くらいに描いた絵が押入れに入っていて、それを母が娘に見せたことがあるらしい。
僕は中学まで絵画教室に通っていたので多少腕に覚えはあるけれど、所詮素人の落書きレベルの話だから、その絵に関してもどんな絵だったか全く覚えていない。
ただ母が気に入ったから取っておいた、と言っていたとのこと。
それを見て、何で美大って思ったの?と聞くと、僕が美大に行きたがったことを、その時に母に聞いたのだと言う。

ああ、と苦笑した。

高校の頃、やはり大学を選ぶ際に勉強も十人並み、部活もそれほど … と色々行き詰まっていた感もあって、僕は逃げ道として美大に行きたいと言ったことがあった。
父には逃げ道だというのが丸分かりだったらしく酷く叱られて、まぁ、僕自身もそれほどではなかったことあって諦めたのだけど、母は「父が無理矢理諦めさせた」と言うようなことを娘に言ったのだとか。
まぁ、余計な事を言ったもんである。

それで美大に自分が行こうと?と尋ねると、まぁ、自分が絵を描くのが好きなのが一番だけど、と答えた。

そうでもなきゃ、こっちは申し訳なくってやってられない。
親子でもそうだけど、親の人生と子供の人生は別である。
それについて、ただでさえ色々と影響している以上に、彼女の人生を大きく方向づけてしまう決定に影響を及ぼしたとしたら、これは僕自身責任が取れないという意味で怖い。
その決定に彼女の意思が少なからずあったと言うのなら、まだ救われる気がするのである。

これからどんな道に進んで行くのかわからないが ( 美大なので、多分相当苦労するはず 苦笑 )、あとで恨み言を言われないよう、ただ祈るのみである。

喫煙をめぐる様々なこと

2017年5月19日

近頃、喫煙に関する話題が喧しい。
飲食店や公共施設での禁煙に関する都の条例案を巡って、分煙と禁煙に分かれて都議会も喧々諤々らしい。
それぞれ言い分はあるのだけど禁煙は世界的な流れなので、やはり禁煙化は免れないんだろうな、とは思っている。

2017年5月19日

今では信じられないが、かつては電車内はおろか、バスや飛行機でもタバコが吸えた。
地下街なんかも平気だったし、大学の構内も平気だった。
社会人になりたての頃は会社のデスクでも吸えたし、路上での喫煙は当たり前だった。
そう言う背景があって、喫煙が当然とされる時代であった。
もちろん、その頃からタバコが苦手な人はいたし、タバコを吸うと肺がんになるぞ、とかスポーツをやるならタバコはダメだとかは言われていた。
まだ「受動喫煙」という言葉は、あったのかもしれないが一般的ではなかったのだ。
今後、そう言った場所での喫煙が可能になるとは思えないし、やはりタバコを吸うと言うのは「昔の話」になりつつあるようだ。

2017年5月19日

僕の世代だと父親が喫煙者だった、と言う方が一般的かもしれない。
僕は父だけではなく祖父も喫煙者だったので、実家の壁などはヤニでひどく汚れていた。
どこに行っても大人の男はタバコを吸っていたし、何せ隣家がタバコ屋で、父の遣いでタバコを買いに行くと、お釣りは小遣いで貰えたりしたのだ。
なので僕自身がタバコを吸うようになるのも自然な流れであったと思う。
大きな声では言えないが、初めてタバコを吸ったのは高校生の頃だった。
あまり美味しいものではないし、どうしてこんなものにお金を出しているのかよくわからなかったが、まァ、悪友どもがみんなして吸うので付き合いで吸っていた。
最初はそんなモンではないだろうか。
その後数十年吸い続けたが、大病をして止めざるを得なくなった。
入院で禁煙したので禁煙は辛いものではなく、またその後も吸いたいと思うことがない。

2017年5月19日

昔はよかったのに今ではダメだ、と言うのが存外ある。
例えば原付のヘルメットも、僕が免許を取った頃には着用義務はなかった。
もっと昔で言えば、今は厳しく規制される覚せい剤も、かつては「ヒロポン」と言う名前で合法的に販売されていたのだ。
もちろん緩和されているものもあるが、どうしても厳しくなったものに目がいく。

タバコもやがて同様に規制の対象となるのだろうか。
CM などは随分前から規制されているし、F1 などのモータースポーツのスポンサーもかつては一番多くの露出であったのに昨今では難しい。
逆説的はあるが、タバコの有害性が認めらて久しいのに、なぜ国は販売を禁止しないのか、と言う疑問にも行き着く。
それを訴えた訴訟もあったようだが、因果関係が認められず、ニコチンの依存性も低い ( !! ) として訴えは棄却されている。
病院で禁煙外来も設けられているのに依存性は低いと言うのは、全く以って不可思議な判決理由であるが、これは大昔の判決ではなく 2003 年の判断なのだ。
喫煙に関する認識は、この十年あまりで大きくシフトしたのだろう。

昭和は遠くなりにけり、である。

昭和 41 年

2017年5月19日

僕は昭和 41 年生まれなので、こうした風景は日常的に見ていた。
家から数分のところに「どんぐり広場」と言う公園があり、そこにはブランコやジャングルジムなどの遊具もあったが、子供達に人気があったのは、こうしたただの土管だったりしたものだ。

2017年5月19日

またこうした焼杉やトタンの壁なんかも普通にあったものだ。
ホーローの看板も懐かしい。水原弘のハイアースや大村崑のオロナミン C なんかはしっかりと記憶している。

前にも書いたことがあるが、僕が物心ついた頃には、戦後わずか二十数年した経過していないにも関わらず、戦争の痕跡はほとんど見当たらなかった。
名古屋城も復元されていたし、僕の実家のあたりは一面焼け野原になったらしいが、満遍なく家が立ち並び商店街は賑わっていた。

仮にそれが昭和 45 年だったとして、今が昭和 45 年だと考えると、戦争が終わったのが平成 5 年である。
平成 5 年といえば、皇太子と雅子さまが結婚された年だ。

2017年5月19日

まァ、一昔前の印象はあるが、それほど大昔でもない。
24 年という月日はそういう月日だ。
生まれた赤ん坊が、すでに社会人になっている。

しかし写真で見る限りの話だが、あれほど灰燼に帰したといっていい街が、その時間で破壊の痕跡すらも残さずに元通りになっていたのには、改めて驚く。

むかしは良かったなどという積りはない。
実際良い訳がないのだ。
現代の利便性などに頭の天辺まで浸りきった僕らが、過ぎた時間に対して抱くノスタルジーは、結局記憶の浄化でしかないのだ。

ただぼんやりと思うことには、やはりあの頃は楽しかったということ。

高橋是清について

2017年5月19日

山田風太郎の「人間臨終図鑑」に拠れば

有馬頼義『二・二六事件暗殺の目撃者』 によれば、
「裁判記録では、是清は蒲団をはがれるまで眠っていたようになっているが、(女中の)阿部千代の証言は、反対であった。信ずべき報告によれば、是清の寝室にはいったのは、中橋基明(中尉)と、中島莞爾(少尉)の二人だけであった。

中橋は先ず『天誅!』と叫んだ。それに対して
高橋是清は 『馬鹿者!』と、どなりかえしている。高橋是清はそのとき、八十三歳の高齢であった。

『父はとしをとっていましたし、寒いときでしたから、寝巻の上に、真綿のチャンチャンコを着て寝ていたんですが、殺された父の姿を、私は正視出来ませんでした。
拳銃で撃たれて横に倒れたところを、日本刀で斬りつけられ、右腕は胴からはなれ、蒲団の外へぶらんと出ていました。

(中略) 胴は胴で、輪切りにされていました。これは全く惨殺です。死んだ者に、幾太刀もあびせているんですから、これくらい惨酷なことはありません。(後略)』と高橋是影(是清の六男) は語っている」

とある。

僕はどういう訳だか、高橋是清という政治家がとても好きである。
今ここで政治云々を述べるつもりはないが、良い意味でも悪い意味でも政治家たる者どこか突出したカリスマ性を持つべきであろうと考えている。
そういう意味において、実に七度の蔵相に就任するなど、後にも先にも恐らく居ないのではないだろうか。

2017年5月19日

この事件の一報を聞いた天皇陛下は

天皇は事件を聞いて「朕が股肱の老臣を殺戮す。此の如き凶暴の将校等その精神に於ても何の恕すべきものありや」と激怒した・・・・・・真相は右のごとく狂気の凶行で、天皇の怒りは当然である。

とされている。
様々な論説の中、青年将校たちの一途な思いに同情する向きもあるようだが、自分たちの考え方のみに正義を見出して、国の安泰を危機に晒したのはテロと呼ばれても致し方ないのではないか。

2017年5月19日

松尾伝蔵  ( 内閣総理大臣秘書官事務取扱/私設秘書・予備陸軍歩兵大佐 )
高橋是清  ( 大蔵大臣 )
斎藤実 ( 内大臣 )
渡辺錠太郎  ( 教育総監・陸軍大将  )
警察官 5 名
が死亡。
鈴木貫太郎  ( 侍従長・海軍大将 )
ほか警察官や斉藤実内大臣の夫人らも負傷している。
襲撃箇所は、総理大臣官邸、高橋大蔵大臣私邸 ( 写真 )、東京朝日新聞社、日本電報通信社、報知新聞、東京日日新聞社、国民新聞社、時事新報社、斎藤内大臣私邸、渡部教育総監私邸、鈴木侍従長官邸、陸軍大臣官邸、陸軍省並参謀本部、警視庁、後藤内務大臣官邸、牧野元内府。

決起部隊の首謀者である皇道派青年将校の理論的指導者だった北一輝は、( ここからは私見であることを述べておく ) その著書「国体論及び純正社会主義」で「明治維新の本義は民主主義に有る」として天皇制を批判している。
天皇の国民ではなく国民の天皇であり、国体は基本的人権が尊重され、言論は自由であり、階級制度はない、というのが明治維新の本来の姿ではなかったか、としている。
一般に二・二六事件は右翼思想とされているが、北のこの考え方は、まさに戦後日本の原論である日本国憲法そのものである。
しかし、北らの思想は「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」、クーデター、戒厳令という強権体制への国家改造を推し進めるものであった。

2017年5月19日

高橋是清は 1927 年の昭和大恐慌時に三度目の大蔵大臣を務めており、モラトリアム ( 支払猶予制度 ) や紙幣の大量印刷によって当面の金融危機を回避し、1931 年の犬養内閣ではイギリスに次いで二番目の早さで金輸出を再禁止し、金本位制度から管理通貨制度に移行させた。
これによって「金の保有量」に制限されない積極財政政策を行いやすくなり、大量の国公債発行による公共事業や軍事への投資が可能になった。
高橋是清はケインズ政策の先駆けとも言える公共事業・軍事予算を活用した「積極財政政策」を実行して、大量の国債を日銀に引き受けさせることで財政規模を拡大したが、国債・通貨の大量発行によってインフレが発生してデフレスパイラルの大不況を離脱する原動力にもなった。

何やら現代でもよく聞くキーワードが並んでいる。
面白いのは、北一輝の思想は岸信介にも影響を及ぼしていると言われ、当然孫である安倍晋三も少なからず、その考え方には影響されていると考えられる。
その北一輝らに暗殺された高橋是清が推し進めていた「積極的財政政策」を、その思想の影響下にある安倍晋三は推し進めている点である。

結局、高橋是清が襲われたのは、極端なインフレを抑制するために赤字国債と国家予算を縮小しようとし「軍事費の削減」に手をつけたためだとされるが、これこそまさに「木を見て森を見ず」であり、文芸評論家である花田清輝をして「ホームラン性の大ファウル」といわしめた北一輝の理想論が招いた事件であろう。

江戸東京たてもの園にある高橋是清邸の暗殺の現場になった二階の寝室に立ち、そっと手を合わせて、そんな事を考えていた。

鍵屋

2017年5月19日

台東区下谷にあったという「鍵屋」
安政年間に作られたという建物である。
もともとは酒類の卸をしていたのだけど、大震災や大空襲などで小売店が焼けてしまい、卸だけでなく居酒屋も始めたのだという。
酒は三種類だけ。
一合枡で計って徳利をつけ、一人三合以上は飲ませなかったらしい。
これは店主が酔っぱらいを嫌ったせいなのだとか。

2017年5月19日

そんな偏屈さが好まれたか、あるいは建物のボロさ ( と説明の方は表現されていた ) を気に入ったのか、谷崎潤一郎、内田百閒、永井荷風らも度々訪れたのだという。
鍵屋は今でも根岸で営業しているが、この建物は昭和 49 年ごろに道路拡張で取り壊された物。
谷崎はいつもキレイな女性と一緒であったというのは、現店主の記憶であるらしい。

静養

2017年5月5日

どうも調子が悪い。
疲れているのか、精神的なものか。
昨日も突然激しい腹痛に見舞われて大変な思いをした。
一旦リセットしてみようと、今日は思い切って休むことにした。

さて休みなんだから思う存分寝てりゃ良さそうなものだけど、目がすっきりと覚めてしまう。
取り立ててすることもないので、ぼんやりと録画してあった映画を見て、昼ごはんを食べ、読みかけの本を読む。
リセットになったかどうか分からないけれど、静かな一日を過ごしている。

障子の向こう側

2017年5月5日

僕がまだ二つか三つくらいの頃、実家で撮られた写真に、こんな背景で僕が座っている写真がある。
実家は僕が幼稚園に入るかそこらくらいで改築していて、写真はそれ以前もものだから、昭和でいえば 43 年とか 44 年とかだろう。
もちろん今でも和風の建築で家を建てる人も相当数いるのだろうが、当時は「建てる人もいる」のではなく、まだ和風の方が一般的だったと思う。
どの家に行っても居間は和室だったし、フローリングの部屋の方が畳の部屋よりも少なかった。
和室と和室の境には襖があり、和室が部屋以外の場所と接する所には障子があった。

向こう側に光源がないとこうはならないので、その条件から類推すると僕の写真に写る障子の向こう側は短い廊下だったはずだ。
僕の写真に写る障子の向こう側の人は誰だろう。
当時はまだ祖父も叔父も叔母も家にいたし、写真には僕しか写っていないのだから、たくさんの可能性がある。

そんなことを考えながらシャッターを切った。