「nikon」タグアーカイブ

昭和 41 年

2017年5月19日

僕は昭和 41 年生まれなので、こうした風景は日常的に見ていた。
家から数分のところに「どんぐり広場」と言う公園があり、そこにはブランコやジャングルジムなどの遊具もあったが、子供達に人気があったのは、こうしたただの土管だったりしたものだ。

2017年5月19日

またこうした焼杉やトタンの壁なんかも普通にあったものだ。
ホーローの看板も懐かしい。水原弘のハイアースや大村崑のオロナミン C なんかはしっかりと記憶している。

前にも書いたことがあるが、僕が物心ついた頃には、戦後わずか二十数年した経過していないにも関わらず、戦争の痕跡はほとんど見当たらなかった。
名古屋城も復元されていたし、僕の実家のあたりは一面焼け野原になったらしいが、満遍なく家が立ち並び商店街は賑わっていた。

仮にそれが昭和 45 年だったとして、今が昭和 45 年だと考えると、戦争が終わったのが平成 5 年である。
平成 5 年といえば、皇太子と雅子さまが結婚された年だ。

2017年5月19日

まァ、一昔前の印象はあるが、それほど大昔でもない。
24 年という月日はそういう月日だ。
生まれた赤ん坊が、すでに社会人になっている。

しかし写真で見る限りの話だが、あれほど灰燼に帰したといっていい街が、その時間で破壊の痕跡すらも残さずに元通りになっていたのには、改めて驚く。

むかしは良かったなどという積りはない。
実際良い訳がないのだ。
現代の利便性などに頭の天辺まで浸りきった僕らが、過ぎた時間に対して抱くノスタルジーは、結局記憶の浄化でしかないのだ。

ただぼんやりと思うことには、やはりあの頃は楽しかったということ。

高橋是清について

2017年5月19日

山田風太郎の「人間臨終図鑑」に拠れば

有馬頼義『二・二六事件暗殺の目撃者』 によれば、
「裁判記録では、是清は蒲団をはがれるまで眠っていたようになっているが、(女中の)阿部千代の証言は、反対であった。信ずべき報告によれば、是清の寝室にはいったのは、中橋基明(中尉)と、中島莞爾(少尉)の二人だけであった。

中橋は先ず『天誅!』と叫んだ。それに対して
高橋是清は 『馬鹿者!』と、どなりかえしている。高橋是清はそのとき、八十三歳の高齢であった。

『父はとしをとっていましたし、寒いときでしたから、寝巻の上に、真綿のチャンチャンコを着て寝ていたんですが、殺された父の姿を、私は正視出来ませんでした。
拳銃で撃たれて横に倒れたところを、日本刀で斬りつけられ、右腕は胴からはなれ、蒲団の外へぶらんと出ていました。

(中略) 胴は胴で、輪切りにされていました。これは全く惨殺です。死んだ者に、幾太刀もあびせているんですから、これくらい惨酷なことはありません。(後略)』と高橋是影(是清の六男) は語っている」

とある。

僕はどういう訳だか、高橋是清という政治家がとても好きである。
今ここで政治云々を述べるつもりはないが、良い意味でも悪い意味でも政治家たる者どこか突出したカリスマ性を持つべきであろうと考えている。
そういう意味において、実に七度の蔵相に就任するなど、後にも先にも恐らく居ないのではないだろうか。

2017年5月19日

この事件の一報を聞いた天皇陛下は

天皇は事件を聞いて「朕が股肱の老臣を殺戮す。此の如き凶暴の将校等その精神に於ても何の恕すべきものありや」と激怒した・・・・・・真相は右のごとく狂気の凶行で、天皇の怒りは当然である。

とされている。
様々な論説の中、青年将校たちの一途な思いに同情する向きもあるようだが、自分たちの考え方のみに正義を見出して、国の安泰を危機に晒したのはテロと呼ばれても致し方ないのではないか。

2017年5月19日

松尾伝蔵  ( 内閣総理大臣秘書官事務取扱/私設秘書・予備陸軍歩兵大佐 )
高橋是清  ( 大蔵大臣 )
斎藤実 ( 内大臣 )
渡辺錠太郎  ( 教育総監・陸軍大将  )
警察官 5 名
が死亡。
鈴木貫太郎  ( 侍従長・海軍大将 )
ほか警察官や斉藤実内大臣の夫人らも負傷している。
襲撃箇所は、総理大臣官邸、高橋大蔵大臣私邸 ( 写真 )、東京朝日新聞社、日本電報通信社、報知新聞、東京日日新聞社、国民新聞社、時事新報社、斎藤内大臣私邸、渡部教育総監私邸、鈴木侍従長官邸、陸軍大臣官邸、陸軍省並参謀本部、警視庁、後藤内務大臣官邸、牧野元内府。

決起部隊の首謀者である皇道派青年将校の理論的指導者だった北一輝は、( ここからは私見であることを述べておく ) その著書「国体論及び純正社会主義」で「明治維新の本義は民主主義に有る」として天皇制を批判している。
天皇の国民ではなく国民の天皇であり、国体は基本的人権が尊重され、言論は自由であり、階級制度はない、というのが明治維新の本来の姿ではなかったか、としている。
一般に二・二六事件は右翼思想とされているが、北のこの考え方は、まさに戦後日本の原論である日本国憲法そのものである。
しかし、北らの思想は「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」、クーデター、戒厳令という強権体制への国家改造を推し進めるものであった。

2017年5月19日

高橋是清は 1927 年の昭和大恐慌時に三度目の大蔵大臣を務めており、モラトリアム ( 支払猶予制度 ) や紙幣の大量印刷によって当面の金融危機を回避し、1931 年の犬養内閣ではイギリスに次いで二番目の早さで金輸出を再禁止し、金本位制度から管理通貨制度に移行させた。
これによって「金の保有量」に制限されない積極財政政策を行いやすくなり、大量の国公債発行による公共事業や軍事への投資が可能になった。
高橋是清はケインズ政策の先駆けとも言える公共事業・軍事予算を活用した「積極財政政策」を実行して、大量の国債を日銀に引き受けさせることで財政規模を拡大したが、国債・通貨の大量発行によってインフレが発生してデフレスパイラルの大不況を離脱する原動力にもなった。

何やら現代でもよく聞くキーワードが並んでいる。
面白いのは、北一輝の思想は岸信介にも影響を及ぼしていると言われ、当然孫である安倍晋三も少なからず、その考え方には影響されていると考えられる。
その北一輝らに暗殺された高橋是清が推し進めていた「積極的財政政策」を、その思想の影響下にある安倍晋三は推し進めている点である。

結局、高橋是清が襲われたのは、極端なインフレを抑制するために赤字国債と国家予算を縮小しようとし「軍事費の削減」に手をつけたためだとされるが、これこそまさに「木を見て森を見ず」であり、文芸評論家である花田清輝をして「ホームラン性の大ファウル」といわしめた北一輝の理想論が招いた事件であろう。

江戸東京たてもの園にある高橋是清邸の暗殺の現場になった二階の寝室に立ち、そっと手を合わせて、そんな事を考えていた。

檸檬

2017年5月20日

なぜ、さだまさしの「檸檬」は、この聖橋のあるお茶の水界隈なのだろう。
「檸檬」と聞いて、あの梶井基次郎の「檸檬」を連想する人は少なくないだろう。
身体の弱い、精神の細い青年の心を晴れやかにした、その檸檬爆弾が置かれた丸善は東京ですらない。

2017年5月20日

「あの日湯島聖堂の白い石の階段に腰掛けて」
湯島聖堂は幕府が設置した学問所で昌平坂学問所という。
その後の東京大学や師範学校の礎になったのは言うまでもないが、そのせいか、この辺りにはキャンパスが多く、学生の姿をよく見かける。
この昌平坂学問所では各地から秀才たちが集められ、初期には朱子学が奨励されていた。いわば幕府のお墨付きをもらった学派は対立する者たちを弾圧したとされている。

2017年5月20日

梶井基次郎の描く「檸檬爆弾」は、まさに鬱屈した気持ちを晴らす想像上の術であった。
そうした鬱々とした思いは若さの象徴でもあり、それは昌平坂学問所に通う渡辺崋山や鳥居耀蔵らも抱えていた思いではなかったか。
また弾圧の対象となった者たちも同様であり、そうした思いを抱えつつ聖橋の掛かる前のお茶の水渓谷を見つめた若者たちは、湯島聖堂の石段に腰掛けて檸檬を齧った少女と同様に「捨て去る時にはこうして出来るだけ遠くへ投げ上げるものよ」「消え去る時にはこうして出来るだけ静かに堕ちてゆくものよ」と青春を断念したのではないか。
青春たちの姥捨山今昔である。

バンバンの「いちご白書をもう一度」に「就職が決まって髪を切って来た時に」という歌詞がある。
人生は絶えず取捨選択である。
何かを得れば、何かを失う。
その、謂わば決別の歌が「檸檬」なのではないか。

鍵屋

2017年5月19日

台東区下谷にあったという「鍵屋」
安政年間に作られたという建物である。
もともとは酒類の卸をしていたのだけど、大震災や大空襲などで小売店が焼けてしまい、卸だけでなく居酒屋も始めたのだという。
酒は三種類だけ。
一合枡で計って徳利をつけ、一人三合以上は飲ませなかったらしい。
これは店主が酔っぱらいを嫌ったせいなのだとか。

2017年5月19日

そんな偏屈さが好まれたか、あるいは建物のボロさ ( と説明の方は表現されていた ) を気に入ったのか、谷崎潤一郎、内田百閒、永井荷風らも度々訪れたのだという。
鍵屋は今でも根岸で営業しているが、この建物は昭和 49 年ごろに道路拡張で取り壊された物。
谷崎はいつもキレイな女性と一緒であったというのは、現店主の記憶であるらしい。

デスクからの景色

2017年5月14日

室内のワークスペース ( と書くと何やら大仰だが、要するにパソコンなどを置くスペース ) を窓際に移動したので、ふと目線を上げると、こんな風景が見える。
写真は昨日のものだが、ぼんやりと赤い月が昇り始めていた。
以前住んでいた 9 階とは違って高層階の眺望は望めないし、外を歩く人や走る車の音が結構大きい。

だけど、意外とこの環境が気に入っている。
僕が育った実家は幹線道路の抜け道沿いにあって、昼も夜も車がひっきりなしに走るところだ。さらには商店街の中だったので人通りも多かった。
多分そこに似ているせいだろう。

実家での僕の部屋は西側に窓があったので西日が盛大に当たった。
冬は西風が吹き付けるし夏場は焼けつくように暑かった。
そんな部屋だが、そこにはいい思い出しかない。
もちろん多感な頃を過ごした場所なので、実際には色々あったのだけど、それらは時間の経過が浄化しているのだ。

新しくしたスペースでこれを書いている。
何かが始まるのだ。

カラー

2017年4月2日

家から徒歩圏内にある水辺の散歩道。
「お鷹の道」と呼ばれる所で、江戸時代には尾張徳川家の鷹狩場であったらしい。
水路の脇道を進むと武蔵国分寺に出る。
聖武天皇が建立を命じたのが 741 年だとされているから、この辺りは千年以上も人の往来がある場所なのだろう。

その水路脇に咲いていた花。
てっきり水芭蕉だと思っていたのだけど、葉の形が違うので調べて見たら「カラー」という花らしい。
何でも Y シャツの襟の形に似ているからだそうで、うーん … 苦笑

あ・うん

2017年4月2日2017年4月2日

「あ・うん」と来れば向田邦子だろう。
小説もあるが、NHK で放送されていたドラマの脚本も手がけていて、1981 年の事故がなければ続編を見ることができたはずだ。
他に TBS でもスペシャル版として放送され、主演が高倉健で映画化もされた。
今気づいたのだけど、彼女が亡くなったのは、今の僕の年齢だ。

ドラマの「時間ですよ」とか「寺内貫太郎一家」など ( ま、このあたりは久世光彦の色が濃すぎるきらいもあるけれど )、平和な家庭というのが舞台でありながら、登場する人物それぞれが「業」のようなものを背負い、苦しみ藻掻きながら生きているといった、どこか「ギクリ」とさせられる筋が多い。

たしかに、自分の親ですら知らないことも多い。
自分が物心ついてからの両親は分かるのだけど、それまでの両親は話の中でしか知り得ないのだ。
どんな物を食べ、どんな映画を見、どんな恋をしたか。
口伝えで聞くことはあっても、実際に見たわけではないから想像の域は出ない。
そこには怒りや失望、妬みや嫉みもあるだが、何もそれを我が子に自ら聞かせようという親も少なかろう。
そんな人々を描いていたのが向田邦子だった。

たいへんに美しい人である。
何度もあちこちで言っているから、もう知ってる人も多いと思うが、僕の理想の女性は見た目から生き方から、全てが彼女に集約される。
もしも若い頃に目の前にいる人であったなら、僕は色々と踏み違えていたかも知れない ( もっとも、それを許してもらえるのなら、という前提である 笑 )

死後発表された「向田邦子の恋文」は、読みはしたのだけど切なくなってしまった。
妹の和子さんの手によるものだけど、内容は遺品の中から見つかった、邦子が生前気持ちを寄せていたカメラマンとの私的な遣り取りなのである。
こんなものを公開してしまっていいのだろうか。
そのカメラマン氏は病気を苦に自死されたらしい。
氏への邦子の手紙や日記は、死後カメラマン氏の母親から邦子にそっと渡されたという。
それを公開してしまっているのだ。
一読後、引っ越しのどさくさでどこかに行ってしまって、それ以来見かけない。