い着ること

2017年4月13日

今は全身ユニクロでも気にしない、オシャレとは縁遠いおじさんに成り果てているが、これでも若い時分は随分と着道楽をしたのだ。
すっかりタンスの肥やしになっているが、ネクタイ ( 当時はちゃんとスーツを着て仕事をしていたので ) や、今ではデザイン的に厳しくなってしまったスーツは、当時でもそれなりの対価を支払って手に入れたもので、捨てるには忍びなく、かと言って着るのか?と問われると、それは無理というありがちな様相を呈している。数量も結構あるのだ。

娘などは僕の若い頃の写真を見て、もうこんな感じの服は着ないのか、と言うが、もう洋服に対する執念というか、こだわる気持ちがなくなってしまっているのである。
人は外見ではない、と言うが ( 見た目が 9 割、なんてことも言われるけれど )、それでも最低限の清潔さだったり、時と場所を弁えた服装は、もういい歳をした大人なのだから、なおざりにしてはいけない。
そんなことで人格を判断されるのは心外と言うものだろう。
しかし、そのボトムラインを保つのに、必要以上のこだわりやお金をかける意味というのが、もう自分の中に見出せなくなっているのだ。
僕は典型的な日本人体型であって、近頃は中年太りも甚だしく、そんなものにナンボかけようが現実とは超えられない壁であるのを実感するのみである。

何だか悲しい話になってしまったが、年をとるということのある側面は、もう本当にこういった瑣末な悲しみの連続でもある。
これは、今は若さを謳歌している人たちにも均等に等しく訪れる。
つまり「生きる」ことの一環なのである。

東京に来てから通勤途中である新宿などを通りかかると、全身くまなく気を配ったファッションの人たちを多く見かけるようになった。
こちとらお上りさんでいなか者と来ているから、おそらく彼らの視界にすら入っていないのだろうけれど、そんな彼らを隔世の感を以って眺める毎日なのである。

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